4月8日 金曜日  

■■■朝と陸前高田市入り■■■

朝4時ころ嫁の電話で起こされて、大丈夫。
まだ眠い。なんて言って切ってしまった。
また寝て、今度は6時頃にNEXCOの人に、
「起きてください。高速道路閉鎖しますので、
このままいるとでられなくなります」
と言われて、眠いけど出発。
一関ICで下ろされて、陸前高田市に
向かう道を走ると、
昨日の地震の影響か、どこも電気がついてない。
朝6時過ぎとはいえ、
通る街どこもすごく物悲しい様子。
コンビニなども開けられる状態じゃないみたい。
入り口が目張りされていた。

また昨夜の地震の影響だと思うけど、開店前の
ガソリンスタンドに列が出来ていた。
そんな街を通り過ぎ、山道を抜けて、
7時過ぎには陸前高田市に。
まだ海が見えないひと山手前の街からひどい状況。
川を津波がさかのぼってきたらしい。
下の写真はちょっと小高い所から、
来た道の方を撮影。


幹線道路はもう補修や整備が入っているけど、
一本横に入るとまだこんな感じの所も多々。
ひと山越えて橋から市街地を見渡す。
元の景色を知らないけれども、
家々が普通に並ぶ街並みだったはず。






線路と橋の上の青看。浜辺の松林の松がここまで
流されてきてる。
松林のある海岸からおよそ2km。

ちょっと戻ると、小川で水汲みをしている
お母さんと20前後の息子さんが居たので
物資を持ってきました。何か必要な物ありますか?
と聞くと
唐突すぎてポカーンとされたけど、
水とかタバコとかって言ったら、
お醤油と飲み水が欲しいと言ってくれたので渡して、
他にもいろいろ...。と言いかけた所、
川向こうの方が一時期物資が止まってたみたいで
そっちに持っていってあげるといいかもと
教えてくれた。

近い橋は落ちてしまっているので、だいぶ戻って
無事な橋を渡って川向こうへ。



川べりの道はまともに道が残ってないので河原に
緊急の道が出来ていたりした。
酷い景色が続く。

河口、海岸近くの中学校。3階まで津波に
飲まれた事を物語ってる。
養殖の牡蠣やブイが絡まり目も当てられない。
教諭、生徒は全員無事だったけど、流されてきた
遺体がいくつもあったらしい。


■■■公民館でのひととき■■■

また火をたいている人たちを見つけて、
物資を持ってきた旨を伝えると
この先に小さな公民館があるからそこへ
持っていってあげなと言われ、公民館へ。

着くや車を飛び降りて、いきなりですみません。
物資持ってきましたー!
必要な物ありますか?!
と聞いたら、最初はなんだ?という顔で
みてた方々も笑顔になってすごく喜んでくれた。

おおぉ、ってみんな集ってきてくれて、
荷下ろしを手伝ってくれた。
靴下です。ナプキンです。カップ麺です。

お酒ですっタバコですっビール...発泡酒ですっ
これらが一番喜ばれた。
写真の紺色のジャージの方が板さんで、
酒、醤油、めんつゆなんかをすごく喜んでくれて、
やはりコン○レックスは不人気だった。

すぐ行こうと思ったけど、おじさんたちが口々に
中で休んでけー休んでけーと言ってくれるので、
避難所の中もちょっと拝見したかったから
休ませてもらう事に。

と、板さんたちが朝飯くったかぁ?と言うので、
道中食べてきましたと返事をすると、
よし!飯作ってやるで食ってけ!と言われた。
アレ?って思っている間に、
卵のおじやとおでんが...。

出されてしまったら、遠慮もできないので
美味しくいただく。
菅野兄弟のヒロタカとシュンヤといろいろ話を
しながらゆっくりいただいた。

でものんびりもしてられないなと表に出ると、
白いタオルを頭に巻いた畳屋さんが
薪割りをしていたので、お手伝いをしてみる。
思ったより体力がなくなってて、
というか、コツがわからず全然うまく割れない。
四苦八苦してると、菅野弟が出てきてお手本を
見せてくれた。
なかなか筋が通ってる。
僕の薪割り師匠になった。


被災地で初めてあったペット。
被害を受けてない土地で飼われてたから元気。
ゴン。
可愛かった。

薪割りしたり洗い物したり、菅野兄弟と
遊んだりしながら過ごし、そろそろ帰ろうと
思ったら、板さんが昼食のナポリタンを作ってた。
大釜ですごく手際良く作ってるので見とれていたら、
昼飯もくってけーってなって、
いやいやいやいや、被災されてる方の食料を
そんなに僕が食べられないですよ。
と言ったら、
畳屋さんが「そこそこ食うもんもあるし
悲壮感はないよ。食べて行きな」と言う。
あまり断ったら逆に失礼かなとと思い、
ありがたく昼食もいただくことに。
昼食はナポリタンに配給されたあんぱんとバナナ。
バナナは果物アレルギーで食べられない事を
伝えると、奥様方が驚いてた。

さんざん食べておいてなんだけど
もう長居できない。と思い、
行きます!お邪魔しました。また来るので、
がんばってください。って言って
車に乗り込むと運転席に、ビニール袋が。

中を見ると、栄養ドリンク一箱、おにぎり5個、
お茶2本、水1本、野菜ジュース1本、
クラッカー、あんぱん、クロワッサンが。

自分が何しにきたのか
ちょっと分からなくなったけど、
歓迎してくれたのだとそう思うようにして
お礼を言って出発。



■■■気仙町から気仙沼へ■■■

公民館を後にし、付近の町を少し回る。

海岸沿いは本当にどこもひどい状況。
海上でも自衛隊ががんばってる。












護岸すら崩れて道路も危険な状況。
下ナシ。多分アスファルトの下の土の部分は
持ってかれちゃってるんだと思う。
実際覗いたらえぐれてた。

最後に対岸から一本だけ残った市民の
心の支えと言われている松を見て、
陸前高田市を後に。
気仙沼へいく道中もずっとこんな感じ。
気仙沼。
焼けた跡が生々しくて辛かった。
一関から来ていたアマチュアカメラマンの
おじさんと、いろいろ話をしながら
写真を撮る。
どんなに小さな力でも継続して支援していけたら
いいですねと、おじさんと気持ちを同じにしながら
今後も出来る範囲で僕なりに
支援していけたらなと思った。













■■■気仙沼から更に南下■■■

その後、本吉のあたりまで国道45号線南下して
見て行く。南気仙沼付近。









気仙沼線 最知駅。
ストリートビューで調べたら、
コンビニみたいな建物は
ラーメン屋さんだったらしい。


気仙沼線 大谷海岸付近。
ストリートビューの画像と比較すると
同じ場所なのかと思うほど。
テトラポットも車も砂浜に埋まってしまってる。








多分赤牛漁港付近。
線路がよじれ、橋脚も崩され、流されていた。
あらためて今回の津波の力に驚かされる...。

一枚目の写真、橋脚が奥の方に。
手前のコンクリの塊も流された橋脚と土台。
橋を支えているコンクリートの塊がこうも
簡単に流されているのを見ると津波の力が
とても強烈だったことが想像できる。

そして、貝や魚も打ち上げられていた。
彼らも被災者。







仕事の電話があり、4日間の予定を変更して帰路へ。

途中登米付近で見かけた自衛隊のキャンプ。

■■■帰路■■■

内陸にむかえば、コンビニや飯屋、スタンドも
やってるだろうと思ったけどどこもやってない。
昨日の地震のあとずっと停電が続いてるんだと
夕方になって気づいた。
車移動で携帯もあまり繋がらない所にいたので、
情報が少なかった。
これはちょっとまずいなとも思ったけど、
さすがに国道4号まで出れば大丈夫でしょと
思っていたけれども甘い考えで、
高速に乗れば大丈夫でしょ思い、
なんとか古川ICにたどり着くも、
大和ICまで南下しないと高速も通行止めで。
とりあえずガソリンの消耗が気になったので、
持ってきていた携行缶から18L給油して一安心。
やっと大和ICにたどり着き、そこから高速で帰宅。

停電の中、さすが日本と思った事。
国道4号線ですら信号が消えてた状況の中で
どこの交差点でも、優先道路、側道関係無しに
譲り合い決して事故りそうなどという場面には
出くわさなかった。すごいなと思った。

食料は何も心配する事は無かった。
陸前高田市でいただいた物資が大変役に立った(;ω;)

twitterでいろいろ人とやり取りして、今回行って、
見たもの、聞いたものを総合して
思ったことは、もちろん食料などの物資、
作業する力も大事で必要だけど、
コミュニケーションという心の支援も大事なんだと
思った。

飯食ってけ。いいから食ってけ。

今日泊まっていくの?

知らない人たちと窮屈な避難所で何週間も生活して
疲れた心に外から来た人間の存在は確実に
マイナスにならないと思う。

歌えなくても、面白いことできなくても、
人に少しでも安らぎや笑いを提供できるなら
何回も何回も行きたいと思う。

日々の仕事もちゃんとこなしてまた準備しなきゃと
思った。

ホント文章が下手で申し訳ないのですが、
こんな感じでした。
是非土日だけでも時間が作れそうなら
行ってあげてほしい。
ビール1ケースだけでもお菓子1箱だけでもいいから持っていって、
会話をして帰ってくるだけでも全然充分な
支援になると思います。

 
 

ーありがとうー
ヒロ、まんさい
判治さん、隠れ家ダイニング WAYA、まりも
やっちゃん
mont-bell アウトドア義援隊の方々

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