4月7日 木曜日  

■■■出発■■■

6日22時 出発。
7日2時半頃、山形市の先輩の家に到着。
仮眠を取らせてもらう。
数年前も同じくらいの日にバイクで山形入り
した事があったがまだ寒い。

6時に起こしてもらい、
天童市に向けて出発。
走り慣れた道だけど、10年以上経つと
それなりに町並みも変わっているもので
ちょっと寂しかった。
今回はハンサム兄弟、デブパレードのボーカル
ハンサム判治さんに紹介していただき、
初日はmont-bellのアウトドア義援隊に
参加させていただく事にした。
天童市の電機会社の倉庫に行くと、
各地から送られてきた物資がたくさん。
それでも、もう3週間以上義援隊の方々が
毎日毎日いろんな場所に届けているようで、
当初よりは減っているらしい。

受付の壮年の方は笑顔もなく、緊張感が
伝わってくる。僕もヘラヘラしてられない。

挨拶をさせてもらい、早速荷物の積み込み。
大阪から来られて3週間義援隊で活動されている
ヨコヤマ隊長の下に配属された。
女子大生のコジマさんと3人。

おむつ、服、生活用品など、
物資が偏らないように、
1つずつパレットに載せていく。
僕の車にも物資を分けてもらい、物資補強!
2時間くらいかけて積み込んで出発。
作並を抜けて宮城入り。仙台宮城から
東北道に乗り、泉PAで休憩した。

さまざまな職業の方が。
この後ここに直接織田哲郎さんが運転する
トラックも合流の予定だったみたいだけど、
ヨコヤマ隊は出発。

この時点ではどこに行くか分からなかった
けど、出発してから三陸道に乗ったので
石巻だと分かった。
石巻は行きたいけど多くの支援が
入っているとTVやwebで見ていたので
今回は辞めようと思っていたところ。

でも行きたい場所だったのでよかった。

ようやく石巻に入った。市街地に入る前から
道路脇にはがれき。
3月11日興行予定だった全日の告知ポスター。
見覚えのある市街地はずっと撤去待ちの
がれきや車が山積み。
2年前来たときには
想像もしなかった光景。
■■■到着と作業開始■■■

避難所になっている湊小に
mont-bellの会長さんの隊が居るとの事で、
そこへ向かう。湊小前。



物資をここに下ろすのかと思ったら、
避難所横の民家の泥の撤去作業をすることに。
物資を運ぶだけじゃなくこういう支援も
あるのか。これなら僕も出来ると思った。

でも、元々体力が全然無くなっていた上に、
ただの泥ではなく、布や紙などいろいろな
物が混ざってしまっている泥なので、
すくいにくいし、重いし大変な作業だった。
普段体を動かしてないのが祟った。


義援隊本部で支給された昼ご飯。
一応持参はしてたけど、
ありがたくこちらをいただく。
ヨコヤマ隊3人で話をしながら、
砂埃まう外で昼食。

昼食を終えて、作業に戻る前に避難所の
まわりを歩いてみる。
学校の裏のお墓と民家の裏。

自衛隊の給水車。
女の子が近づいてきて、何してるのー?
写真?カメラ貸して〜というので、
カメラを貸すといろんな物を撮り始めた。
おじさんね、津波の被害にあわなかった
地域の人にね、この様子を伝えたいから
ちょっと車やお墓の方も撮ってみて。
とお願いすると、
地震なんてなかったよ?あれは嘘だったの。
と言う。
怖くて怖くて自分の中で嘘や夢として
処理したのかな。
その後、たぬきの置物が落ちているのを
見つけて、一生懸命拝んでいた。
亡くなった人のものかもしれないと
思い拝んだのか、
早く普通の生活に戻れますようにと
拝んだのかはわからなかった。
胸をぎゅっとつかまれた感じがした。

隊長がどっかに行ったので探しにいくと、
イギリス出身の落語家で、バルーンアーティストの
ダイアン吉日さんという方が
子供にバルーンアートを披露していた。
みんな楽しそう。

96歳のおばあちゃんもいい笑顔。
人を笑顔に出来るのって本当にすごいな。
そういう技能のある人は是非被災地に
慰問でも物資輸送でもいいから
行ってほしいと思った。



遠くから自分のアルバムを探しにきた夫婦。
たまたまみんなで作業している民家に
流れ着いてたようで、そのアルバムを
見た瞬間、奥さんの方が喜び、
泣き始めた。本当によかった。

それからまた泥のかきだし作業。
たった1軒を7〜8人でやっても
3時間以上かかる作業。
ホント人手と時間が必要だと感じだ。

その後、ヨコヤマ隊は物資配布先へ移動。


■■■物資配布■■■

石巻市街地から少し離れた鹿妻という地区に来た。
田んぼや畑が広がるたぶん農業地帯。
田んぼや畑にも流されたたくさんの車が
そのままに。
物資を配るために提供されている場所が
あるみたいで、そこに到着するや、
自称オバタリアン3人組や、彼女らの息子の
嫁らしきフィリピンの方々が
集ってきてくれた。どうも話を聞くと
毎回来てるらしい。
ヨコヤマ隊長は顔見知りのよう。

配布開始。
始めは和気あいあいとしていたけど、
だんだん私はそれもらえてない。
あの人多く取り過ぎだなんて声も。辛い。

毎回手伝いにきてくれるという少年。
若干おかもとまりに似ていてかわいい。
自分はもらうより、手伝った方がいいと
思って。なんて事いうので、
僕の手持ちの物資を少しあげた。
少年の願いは少年ジャンプなどの
漫画雑誌らしい。届けてあげたい。

義援隊の方から伺った話、彼は
一日電柱にしがみついて津波から逃れたらしい。
半日と短い時間でしたがお世話になった
ヨコヤマ隊長たち。
また期間内に行けたら是非会いたい。
お別れをして、一人石巻の状況を見に。
■■■石巻状況■■■

地図の1の辺り。
一昨年、田代島という島に渡るために
訪れた船着き場付近。

船の切符を買う券売所の建物自体は
残っていたけれども、
中はぐちゃぐちゃ...。水の跡を見る限り、
2階付近まで水が来てた事が分かった。



移動して、魚町という水揚げ場、市場、
缶詰工場などが並ぶ地域へ。
お土産用に缶詰を買った工場兼お店の
向かいにあった缶詰工場の鯨の缶詰の
赤い看板。
2ブロック分くらい流されて幹線道路で
こんな状態になってた。

船やタンクも何もかも全部流されてた。
その缶詰を買ったお店、木の屋さんまでは
道が船等で塞がれてて行けなかった。





魚町から今度は、地図の2の地域へ。
ここは広い範囲写真のような感じで
押し流されていた。

地図左下にある石巻高校が一番下の写真だと
思うけど、ここまで完全にやられてた。
高校の裏手は高台になっているぽく、
後ろに見える家々は免れていたみたい。





暗くなってきたので、最後に市街地近辺の
3辺りに戻りぐるり回ってみた。

船が陸地にいくつも上がっていて、
撤去も容易じゃない光景がそこら中に
あった。
一番気になってた地図左上にある
立町付近の、汐だまりという居酒屋。
おいしい魚料理を出してくれてまた行きたいと
思っていたお店。
見にいってみると、
浸水の跡はあったけれども、
建物自体は大丈夫そう。
大将や奥さんの影は無かったが、
災害後の後処理がされていたので
多分無事だったんだと思う。


日も暮れて、明日の予定は友達が入っている
陸前高田市。ガソリンは全然残ってるし、
夜の石巻を見るために海辺で車を
停めようか、
陸前高田市の海辺まで行こうか、
向こうの状況が把握出来てないし、
石巻から海沿いでいくと90kmくらい
あるから、無理せず給油が確実に出来る
東北道まで戻って給油と食料調達を
SAですませてから向かおう。と考え、
東北道の古川ICを目指す。

高速に乗って長者原SAで給油。
食料を確認するとまだパンが2個、
飲み物が3つ残ってたので買わずに出発。
途中日中の肉体労働の疲れが
出てきてしまい、金成PAで停車。
写真整理とメールを送って、
即寝してしまった。

さほど寒くもないので、エンジンを切って
寝てた。

と、ドーーーーーーン!!という音が
聞こえてきて、車体が揺れ始めた。
23:32分頃。
でかい。シャシーはそのままで
ボディーだけ前に飛んでいって
しまうんじゃないかというくらい
でかい揺れ。
寝ぼけながらもハンドルを握って揺れに
耐える。
瞬間、周りの電気が全部消えた。
PAに駆け込んでくる車が何台も。
揺れが収まるとその車たちも
また出て行った。
僕も出て行こうか迷ったけれども、
道が割れてて危ないかもしれない。
嫁から大丈夫?!ってメールが来たので、
返信しようとしたら
メールが行かない。電話も繋がらない。
う〜んどうしようと思ってたら
そのまま寝てしまっていた。

1日目終わり。

 

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